2012年6月14日木曜日

:低きに合わせる教育は「粗」の人間を生み出す



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● 2002/10/30



 実用性の観点からみると、一番役に辰のは会話ができることである。
 それは確かなことなのだが、現在の語学学習は会話に重点を置くあまり、反動として文法をないがしろにしすぎる蛍光がある。
 今の英語の教科書でも、大半は英文法の項目を入れていない。
 その結果、まともな英語の書ける人がどんどん少なくなっている。
 買い物はできるが、正しい文章を書ける人がいなくなっている。
 これは、難しい本を性格に読める人が少なくなったという意味にもなる。

 文部科学省の方針は「低きに合わせる」という蛍光が強い。
 中世以降の西ヨーロッパ人がラテン語やギリシャ語を読むときに重視したのは、文法に基づいて徹底的に正確に読むことであった。
 それゆえに、彼らはプラトンもアリストテレスもキケロもセネカも身につけることができた。
 それができたことが西ヨーロッパの誕生につながった。
 これはイタリア語会話やギリシャ語会話ができるようになるとは全く次元の違う話である。

 日本が近代化に成功した理由のひとつも、非西洋世界の中で西洋の本を正確に読めた唯一の国であったということである。
 西洋と接触した有色人種の国はたくさんあるが、どの国も今の文部科学省が進めているような会話教育的なレベルで勉強が終わっていた。
 ところが日本は、西洋の一番難しい本を読むような努力をした。
 ゆえに日本にはカントの全集も、ゲーテの全集も、シェイクスピアの全集もある。
 それどころか、ヴァレリーのようなフランス本国にない全集まで揃っている。
 これはすべて、「正確に読む」ということから始まったことなのである。
 
 日本人の場合、つい最近まで外国と触れる機会がなかったため、条件反射としてする会話能力が足りないのは事実である。
 その欠点を補おうという文科省の考え方はわからなくもない。
 しかし、そこだけに目が行き過ぎて、語学教育の真の意義を見失うことは注意しなければならない。

 留学すると、日本人は必ずといっていいほど、自分の会話の下手なことに気づかされる。
 そのため、初めは先生から馬鹿みたいに思われることも少なくない。
 ところが、ひとたびレポートを書いて提出すると、先生の態度がガラリと変わるのがわかる。
 会話は下手だが、文法をしっかり学んでいるから文章は正確に書けるのである。
 アメリカ人の先生がいうに、会話が間違っていてもアメリカのような移民の多い国ではあまり気にならないが、文法の間違ったレポートは見る気がしない、という。
 
 日本人は、こうした事情を以外に知らないようである。
 ゆえに、「会話がうまくなるために」と外国に行く学生は多いが、そこで修士や学士まで取得できる学生は少ない。
 これは明らかに文法軽視の弊害である。
 会話を重視するあまり文法を粗雑にしてしまうと頭の粗雑な生徒が増えてくる恐れが多い。
 これは用意に看過できない事態である。

 一律に粗雑なことを教えているのであるから、そこに粗雑なあたまの人間が生まれてくるのは自明の理である。
 世の中の約に立たない人間を育てる教育というものがあっていいわけはない。





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