2012年10月7日日曜日

:参考文献

 
● 1996/07/25[1992/07/07]





参考文献

 歴史を勉強するにあたってまず最初に直面しなければならないのは、文字で記述された史料である。
 史料は、原史料ないし第一次史料と、第二次史料に二分される。
 第二次史料とは後世の学者研究者や歴史家によって書かれた史書のことで、それらが第二次史料と呼ばれるのは、原史料である第一次史料に基づいて書かれたものであるからだ。

 それで、時代の空気をダイレクトに伝えてくれる史料でもある第一次史料だが、それらは原史料として一括されているとはいえ、すべてが同時代の人の筆になるものではない。
 何百年の昔の出来事を、どうやって正確に叙述できるのかとは、歴史の専門家でなくともいだく疑問である。
 まったく、編年式のローマ史を書いたリヴィウスとて、帝政初期の人である。
 それなのに彼は、彼が生きていた時代よりは七百年も昔から書きはじめているのだから。

 古代のローマには、紀元前509年の共和政移行時から、宗教祭事の最高責任者として、最高神祇官(ポンテフィクス・マクシムス)と呼ばれた官職があった。
 本文でも説明したとおり、これとて普通の公職で、ゆえに市民集会の選挙で選ばれる。
 この官職には、宗教祭事の最高責任者に加えて、毎年のダイアリーを記す職務もあった。
 その年は執政官以下の官職に誰と誰が選ばれ、どこと戦争し、どこと講和し、という具合に、ローマが関係したすべての事を一日ごとに記すのが仕事である。
 共和政に移行するまえの王政時代には、王が最高神祇官も兼ねていたから、これは王の仕事であったのだろうが、史実が極度に少なくてはっきりしていない。
 だが、共和政移行時からも、このダイアリー式の記述が続行されいたようである。
 それも公邸の奥で記され、そのまま公文書庫に収められるのではなく、その一年間は公邸の前に置かれて一般公開されていた。
 一年が終わってはじめて、公文書庫に保存されるのである、
 紀元後五世紀になってもこのやり方が踏襲されていたことは、史実になって残っているから、古代ローマが存在した間中、この種の記述はつづけられていたわけである。
 紀元前390年のケルト族襲来時に消失したと、歴史家リヴィウスは書いているが、それ以降も、ローマ人の記録好きは変わらなかったようである。

 ただし、日々の記録であるだけに、詳細ではあったろうが、内容は無味乾燥を絵に書いたようなものであったにちがいない。
 紀元前二世紀 の人、大カトーは、歴史を書くにあたって次のように言っている。
 「わたしには、最高神祇官記録のようなものを書く気持ちはない。
 食料品の値がどれだけ上がったとか、ローマは何日霧に包まれたとか、何日に満月になり、何日に新月になったとか、そのようなことを書くつもりはない」
 
 だが、ダイアリー式の歴史を書く気持ちにはならなくても、無味乾燥な記列式の記録ほど、無味乾燥でない歴史を書く者にとってありがたい史料もないのである。
 紀元後一世紀に生きた歴史家リヴィウスも、これなしには『ローマ史』は書けなかったであろうし、同時代のデイオニッソスが、わざわざ小アジアのハリカルナッソスからローマに移住までしたのは、ローマの公文書庫に収まっているこの記録を読むためであったと思う。
 
 最高神祇官記録(Annales maximi)は、まったくの断片、それも片手で教えられる程度の断片しか、現在では残っていない。
 しかし、古代に生きたローマ人やギリシャ人の書いたものを読めば、この記録が相当な程度に活用されていたことがわかる。
 これが存在したおかげで、紀元後三世紀に生きた歴史家でも、一千年昔の歴史さえ書くことができたのであった。










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