2012年11月27日火曜日

★ ローマ人の物語Ⅱ ハンニバル戦記: 塩野七生

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● 1993/10/10[1993/08/07]



読者へ

 歴史への対し方には、ここの事象の研究に先年する傾向の強い学者をのぞけば、大別して二派に分類できるかと思う。

  第一はマキアヴェッリにその典型を見るタイプだ。
 アッピールしたいと思うことの例証として、歴史を使うやり方である、
 マキアヴェッリの代表作は『君主論』と『政略論』だが、『政略論』とは意訳で、原題は「テイトウス・リヴィウスの『ローマ史』にもとずく論考」という。
 あれを読めばマキアヴェッリは、リヴィウスにかぎらずポリピウスもプルタルコスも読んだうえでの論考であることはわかるが、自らの考えの立証例として、リヴィウスの『ローマ史』を中核とした歴史事象を使うやり方を、彼が選択したということでは変わらない。
 このように歴史を「使う」やり方を選択した人には、最近の例ならば『大国の興亡』の著者ポール・ケネデイがあげられるであろうし、名著『文明が衰亡するとき』の高坂正堯氏も、この線上に位置する人だと思う。

 歴史への対し方の第二派だが、ローマ史にかぎり、しかもこの分野での古典とみなされている作品の著者となれば、ローマの建国からはじまってユリウス・カエサルの死までを書いたドイツ人のモムゼンに、五賢帝の時代から筆を起して1453年の東ローマ帝国の滅亡までを網羅した、イギリス人のギボンがあげられるであろう。
 この二人に代表される歴史への対し方を一言で言うとすれば、「叙述」ではなかと思う。
 彼らにあっては、歴史の叙述は目的であって、手段ではない。

 私は、第一と第二の対し方の優劣を論じているのではない。
 ただ、「ちがう」、と言っているだけである。
 それで、第一と第二の対し方のちがいは何になってあらわれるかというと、端的には分量の差になってあらわれる。
 第一の対し方を選んだ人の著作は一、ニ巻で終わるのに対して、第二のやり方を選択した人の著作は、全十巻になるなど普通である。
 なぜにこうも分量で差が生ずるかというと、それは対し方の第二を選んだ作家たちは、
 「歴史はプロセスにある」、
と考えているからだと思う。
 結果を知るだけならば、受験生必携とか銘打った歴史要約書を一冊読めば解決する。
 日本の高校で使っている世界史の教科書でも、ローマ史関係の記述は十ページにも満たない。
 だが、いったん経過を追い始めるや、分量はこの数千倍を優に越えることになってしまう。
 多く書くことになってしまうのは、長々と書きたいからではない。
 プロセスを追っていくことではじめて、歴史の真実に迫ることも可能になる、と思っているからである。
 私も、この第二派に属す。

 とはいえ、同じ派の巨頭格のモムゼンに、必ずしも同調してはいないのだ。
 啓蒙主義の時代に生きたこのドイツ人は「歴史が裁く」を「歴史家が裁く」と考えていたようである。
 いまだ壮年期にあったのに、また彼の『ローマ史』は刊行当初から大成功を博したのに、カエサルの死まで書いて筆をおいてしまった。
 帝政ローマには、書き入ることもなしに、である。
 当時でも彼の読者は残念がっていたというが、モムゼン自身はその理由を書き残していない。
 だが、彼の『ローマ史』を読めば、それは自明のことである。

 啓蒙時代の子であるモムゼンは、叙述しながらも、批判しないではいられなかったのだろう。
 結果として、共和政時代のローマを好意的に裁いた彼には、帝政ローマは書けなくなってしまったのである。
 ところが私は、人間も、そしてその人間の所産であるシステムも、時代の求めに応じて変化する必要があることを訴え続けてきたマッキアヴェッリに賛成なのだ。
 この私もまた「裁く」としたら、それはただ非筒の理由による。
 「時代の要求に応えていたかどうか」
である。
 
 この連作の通し表題を、私は『ローマ人の物語』とした。
 だが、日本語の表題のラテン語訳には、歴史とか物語とかをダイレクトに意味する、ヒストリアもメモリアも使いたくなかった。
 所詮は同じ意味であるのだが、ジェスタエという言葉を使った。
 RES GESTAE POPULI ROMANI「レス・ジェスタエ・ロマーニ」とは、直訳すれば、
 「ローマ人の諸々の所行(ジェスト)」である。
 いかなる思想でも、いかなる倫理道徳でも裁くことなしに、
 無常であることを宿命づけられた人間の所行
を追っていきたいのだ。

 そして、
 歴史はプロセスにある
という考えに立てば、戦争くらい格好な素材はないのでらう。
 なぜなら、戦争くらい、当事国の民を\裸にして見せてくれるものもないからである。

 この第Ⅱ巻『ハンニバル戦記』では紀元前264年から前133年までの、130年間が対象になる。
 ローマ人にとっては、カルタゴとの間に闘われたポエニ戦役を中心に、ギリシャやシリアにまでおよぶ対外戦争の時代であった。
 第Ⅰ巻『ローマは一日にして成らず』でとりあげたギリシャが、この間では終末を迎えるだろう。
 第Ⅱ巻ではじめて本格的に登場してくるカルタゴもついには滅亡したのを、二千年後に生きる私たちは誰でも、結果としてならば知っている。

 知力で優れていたギリシャ人なのに、経済力に軍事力にハンニバルという稀代の名将までもっていたカルタゴ人なのに、なぜローマ人為敗れたのか。
 それを、プロセスの一つ一つ追っていくことで考えていただければ、著者である私にとってこれ以上の喜びはない。
 この第Ⅱ巻でとりあげる時代は第Ⅰ巻で述べたローマ人の築きあげたシステムが、その真価を問われる機会でもあったからである。
 それに。紀元前の3世紀¥から2世紀にかけての頃ともなると、史料もより豊富になる。
 同時代人の筆になる史料を使えるようになれば、登場人物たちの顔も見えやすくなる。
 ハンニバルやスキピオをはじめとするこの巻の登場人物たちと私たちの間に、2,200年の歳月が横たわっているとは思えないほどだ。
 そして、それを書く私が愉しんで書いているのだから、読むあなたも愉しんで読む権利は充分にある。
 高校時代の教科書ではないのだ。
 プロセスとしての歴史は、なによりまず楽しむものである。

 ちなみに、1年間で世界中の歴史を教えなくてはならないという制約があるのはわかるが、日本で使われている高校生用の教科書によれば、私はこの巻のすべて費やして書く内容は、次の5行でしかない
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 イタリア半島を統一した後、さらに海外進出を企てたローマは、地中海の制海権と商権を握っていたフェニキア人の植民市カルタゴと死活の闘争を演じた。これをポエニ戦役という。
 カルタゴを滅ぼして西地中海の派遣を握ったローマは、東方ではマケドニアやギリシャ諸都市を次々に征服し、さらにはシリア王国を破って小アジアを配下に収めた。
 こうして、地中海はローマの内海となった。
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 これが、高校生ならば知らないと落第する、結果としての歴史である。
 これ以外の諸々は、プロセスであるがゆえに愉しみともなり、考える材料も与えてくれる、
 オトナのための歴史である。

                                1993年春 ローマにて  塩野七生 





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