2012年12月8日土曜日

★ ローマ人の物語Ⅲ勝者の混迷: 塩野七生

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● 2002/09/01[[1994/08]



 地中海世界の勝者になったローマであるのに、それは富裕階級の富裕度がケタ違いに向上したことが示しているのだが、それなのになぜ、共和政ローマの中核であった一般市民の数が減少するような事態が起こってしまったのか。

 社会不安はしばしば経済不安からはじまる。
 経済不安は、失業者の増加という形をとって姿をあらわす。

 富が必要以上に増えれば、ほとんどの人は投資を考える。
 しかも投資先には土地が最善であると思うのは、古今東西変わらない。
 では、共和政ローマに、投資を可能にするだけの土地はあったのか。
 共和政ローマは、イタリア半島制覇の時代でも、戦いに勝っても相手の都市も市民も滅ぼさずに、そのかわりに相手のもつ土地の一部を没収して、ローマの国有地とするやりかたをとってきた。
 紀元前140年当時の国有地の総計は、ローマの全領土の1/7に当たっていたという。
 これらの国有地は、ローマ市民に貸し与えられた。
 借地料は、小作料と考えれば、妥当過ぎるくらいの金額であった。
 国有地の借地権には、子孫への相続も認められていたし、他者への譲渡すらも禁じられていなかった。
 実際上はもはや私有地と言ってよい。
 ただし、法的にはあくまでも、国有地であったが。

 この国有地に、余剰資金が流れ込んだ。
 ローマにはドレイという、安い労働力が多量に入ってきた。
 ローマ市民は兵役の義務を背負っていた。
 一方、労働力としてのドレイの魅力は、ローマ市民でないため兵役を務める義務がなかった。
 一人前の市民が義務である兵役を務めて帰郷してみれば、留守中の家族労働で得た収穫物は、多数のドレイを使う大規模農園に価格競争で敗れ、苦境に陥っていた。
 その苦境を乗り越えようと借金をする。
 だが、それも、所詮無駄なあがきにすぎない。
 問題はローマの農民の勤労意欲にあったのではなくて、ローマの農業の構造の変化にあったのである。

 ローマ人によるドレイの定義は、
 「自分で自分の運命を決めることが許されない人」
である。
 ドレイには、兵役も税金も免除されていた。
 自分の運命を自分で決める権利を完全にもっていない人には、義務も課せられなかったのである。

 大規模な農園を兵役に徴用されないドレイという安定した労働力を使って経営するようになれば、収益は増大する。
 ローマの国全体からみれば、農業生産は増大する。
 経済的良いことは、社会的にも良い結果をもたらすとは限らない。
 それは、借金のかたにとられたり、価格競争に敗れて手放したりして土地を失った、元自作農の失業者が出現した。
 彼らは、富の集中する首都ローマに流れ込んだ。
 推計によれば、ローマの人口の7%にも及んだという。
 これはもう立派に社会問題である。

 といって、福祉を充実させれば解消する問題ではない。
 「失業者とは」ただ単に、職を失ったがゆえに生活手段を失った人びとではない。
 社会での自らの存在理由を失った人びとなのだ。
 多くの普通人は、自らの尊厳を、仕事をすることで維持していく。
 ゆえに、人間が人間らしく生きていくために必要な自分自身に対しての誇りは、
 福祉では絶対に回復できない。
 職をとりもどしてやることでしか、回復できないのである。

 テイベェリウス・グラクスは紀元前163年の生まれである。
 マリウスは、前157年の生まれである。
 ガイウス・グラックスは、前154年の生まれだった。
 三者とも同時代人であったと言っていいだろう。
 結果としてならば三人とも、失業対策にかかわったことになる。
 グラックス兄弟は意図的に、一方のマリウスは非意図的に。
 そして、グラックス兄弟の構想は彼らの死によって中絶した。
 だが、マリウスは、あっけないくらいに簡単に実現させてしまったのであった。

 執政官マリウスは、正規軍団の編成を、従来のような徴兵制ではなく、志願兵システムに変えたのである。
 これによって、ローマの軍役は、一人前の市民にとっての義務ではなく、職業に変わった。
 マリウスの呼びかけに応じて志願してきたローマ市民の大半は、農地を失ったりして失業者になっていた人びとである。
 市民兵に支払われていた兵役中の経費は、志願兵の給料になった。
 志願制に変えたことによって、失業者を吸収し、当然のことながら長期に兵を使うことができるようになった。
 このことによって、最高司令官を頂点とする将官階級と一般兵士の関係が、より緊密になった。

 すべての物事は、プラスとマイナスの側面をもつ。
 プラスの側面しかもたないシステムなど、神業であっても存在しない。
 ゆえに改革とは、もともとマイナスであったから改革するのではない。
 当初はプラスであったものが、時がたつにつれてマイナス面が目立ってきたことを改める行為なのだ。
 ローマ軍の機能性を回復しようとしてなされたマリウスの改革にも、ほどなくマイナス面があらわれてくる。
 ローマ軍団の「私兵化」がそれだ。
 マリウスの軍制改革こそ、後のスッラ、ポンペイウス、カエサル(シーザー)登場の土壌を準備したということになる。






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